かもん会一泊研修旅行
3月14日(金)〜15日(土)かもん会の一泊研修旅行へ行ってきました。今回の目的は、親鸞聖人の降誕の地、日野誕生院と、東大寺修二会(お水取り)見学、そして善興寺のルーツである明日香村の飛鳥寺参拝でした。出発早々、雪が降り始め、先日死亡事故の起きた小矢部SAを過ぎた所で三台が絡んだスリップ事故発生現場に遭遇。間一髪でその場を通過しましたが、ヒヤリとしました。その後は順調に進み、最初の目的地、昼食会場の滋賀県大津市の石山寺へ。
石山寺は、良弁という僧侶によって建てられたお寺で、現在は東寺派真言宗のお寺です。この良弁さん、それから向かう東大寺を開いたお方。東大寺の前身の金鐘寺で修行し、聖武天皇の発願で、国分寺、国分尼寺の総国分寺として大仏(毘盧遮那仏)を造立、本尊として東大寺となりました。良弁さんは初代別当に任ぜられました。大仏造立の際、黄金を求めて奈良の金峯山で祈っていたところ、夢に山の金剛蔵王権現があらわれて「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるもので
ある(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」と告げました。そこで聖徳太子の念持仏である「如意輪観音像」を石山の地に安置し、草庵を開いたのが石山寺のはじまりとのこと。そして陸奥国(青森から福島にかけての東北東部)から金が発見されたそうです。そして如意輪観音像が石から離れなくなってしまい、石山寺となったのです。
また、石山寺には蓮如堂があります。蓮如上人のお母様がご本尊の如意輪観音の生まれ変わりとの伝説に基づいて建てられたとのこと。滋賀県には沢山、蓮如上人の伝説が残っています。石山寺には美しい梅の花があちらこちらに咲き誇っていました。
こうして東大寺へ向かう途中に有難い歴史を知りました。名神自動車道から奈良方面へ新しい高速道路ができており、スムーズに奈良市内へ到着。宿泊先のホテル日航奈良にて一休み。それから東大寺二月堂を目指して再出発しました。東大寺の駐車場で下車。南大門をくぐり、金剛力士さんたちにご挨拶し、既に閉門した先の大仏さまに一礼して二月堂へ。14日はお水取りの松明が灯される最終日。すでに大勢の人々が二月堂の前に参集していました。早い人で午後3時から待っておられたそうです。私たちは到着したのが午後5時40分くらいでした。
それから「お松明」と呼ばれる法要儀式が始まる6時30分まで人の熱気の中で寒さを忍んで待ちました。
辺りの灯火が一斉に消えて火の灯された大きな松明が下の建物からお堂へ運ばれてきます。長い竹の竿の先端に大きな丸い火の玉が燃え盛り、お堂の欄干の外を巡るのです。「あんな大きな火をお堂で燃やして、火事にならないのか
しら…」燃え落ちる火の粉が縁板や外に落ちます。それを周りの人たちが箒ではらったり、防火服を着た人が散水したり、火消しに一生懸命。私たちは次々にのぼる松明の火の美しさにただただ見入っているばかりでした。そして10本の松明すべてが二月堂を灯し、一連の儀式は修了したのでした。その間、10分間ほど。終わると同時に大勢の人たちが拍手をしました。その拍手を聞いて、別の参拝者が、「これはショーではありません。仏教の法要なのです。だから拍手ではなく、手を合わせるのですよ。」と教えて下さったそうです。浄土真宗のお寺でも法話のあとに念仏ではなく、拍手がおこることがありますが、参拝者に行事の意味を伝えるのは難しいということをそこでも感じました。
真っ暗ななか、スマートフォンのライトを照らしながら駐車場に戻る途中、鹿たちがいないことに気づきました。鹿は野宿をするそうです。確かにシカ小屋なんか建てようものなら、数が多くて大きなお寺くらいのサイズが必要ですね。と話し合いながらバスまで歩きました。お水取りの後はいよいよお楽しみの夕食懇親会です。天平倶楽部というオリエントな雰囲気のお店にて会席料理をいただきました。お刺身もおいしく、奈良の風情をみなさんとともに楽しみました。
二日目は、いよいよ善興寺のルーツ明日香村へ。奈良市内から1時間ほどで明日香村へ到着しました。村に入った途端、飛鳥時代へタイムスリップしたかのような長閑な風景が広がっていました。区画整理のしていない田畠に当時と変わらぬ雰囲気が漂っていました。最初に訪れたのは高松塚古墳。現地のボランティアガイドさんに案内されて見識を深めました。40年ほど前、農家の方が穫れたショウガを保管しようと思い穴を掘っていたところ発見されたのがその古墳でした。石棺にはご存知の四神の極彩色の壁画が描かれており、盗掘にあっていましたが、絵の保存状態もよく、壁画記念館には精巧なレプリカが展示されていました。本堂内陣に描かれている極彩色の絵の国内でのルーツを感じました。
次に石舞台古墳を訪れ、蘇我馬子の墓であったことを聞きます。蘇我氏は日本に仏教を受容した豪族でこの一族がいなければ現在の仏教の歴史も大きく変わっていたのかもしれません。その蘇我氏によって建立されたのが法興寺、現在の飛鳥寺です。ガイドさんの計らいで飛鳥寺へのルートを天智天皇によって作られた日本最古の時計、水時計があった水落遺跡を回る順番で案内して下さいました。その水時計の完成した日を現在の暦に換算すると671年6月10日ということで、時の記念日となっているのだそうです。
飛鳥寺はかつて法興寺といい、蘇我家の菩提寺として建てられた日本最古の仏教寺院です。その七代目の住職、慧乗という方が砺波平野にやってきて一宇を建立されたのが善興寺のはじまりとさ
れています。しかし、その経緯や具体的な資料は現存しないので、砺波地方にいた飛鳥戸造氏(あすかべのみやつこうじ)という一族の菩提寺ではないかと推測されています。法興寺のちに平城京(現在の奈良市)が造成されると、飛鳥の地から移り、元興寺と名を変え、南都六宗のひとつとして現在まで続いています。善興寺が霊亀二年(716)に創建とされていることから、平城京へ移ったときに砺波地方にも飛鳥の地から移住された方がおられたのではないかと思われます。砺波には利波氏という豪族がいて、東大寺建立の際に大規模な土地や材木などを寄進し、中央でも有名な一族になったように当時、越中と奈良は大きなつながりがあったと推測されます。ちなみに二月堂でのお水取りの法要期間、聖武天皇以来、東大寺に貢献をした人々の過去帳が読み上げられるなか、この利波氏の名前も読まれているのです。こうしたことからも、おそらく善興寺も奈良時代に何かの役割を担っていたものと思われます。
今回、飛鳥寺のご本尊、飛鳥大仏(609年鋳造)を拝みながら、遥か約1400年の時を超えてつながる不思議なご縁を追憶させていただきました。その後天台宗の寺院となり、そして親鸞聖人のみ教えに生きる浄土真宗のお寺として変貌を遂げてきたこれまでの善興寺の歩みは日本史のなかでどういう位置づけなのか、少しだけイメージが豊かになりました。
石山寺、東大寺、飛鳥寺といろいろな歴史が交錯する寺院に参拝し、お念仏を称えながら日本仏教の古さや奥深さをまた一段と味わう研修旅行となりました。また飛鳥に関する学びを深めて訪れてみたいと思います。