善興寺について

By , 2010年2月25日 3:25 pm

善興寺の略伝

善興寺旧跡(小矢部市後亟)

善興寺は、もともと後亟(ごぜ:小矢部市)に在りました。現在もその旧地には石碑が建っています。

善興寺に伝わる古文書には、開基について「飛鳥法興寺七世慧乗禅師によって建立」された、と記されています。

飛鳥から後亟へ

飛鳥朝の欽明天皇13年(552)に仏教は百済より伝えられました。仏像を天皇より賜った蘇我氏の菩提寺、法興寺の第7世慧乗法師が、諸国を巡錫するなかで越中国を訪れ、石動山の麓に勝地を選んで一宇を建立したことが始まりとされます。霊亀2年(716)のことです。のちに天台宗の勅願所として「飛鳥山善興寺」の号を賜り、石動山の三分一を功徳田としました。

実如上人より下付されたご本尊

文明5年(1473)第41世俊乗法師は、越前吉崎を拠点に北陸地方を巡教していた本願寺第8世の蓮如上人の教化に遇い、浄土真宗に帰依します。大永3年(1523)6月16日、本願寺第9世の実如上人から阿弥陀如来のご絵像を下附され、天台宗から浄土真宗に宗旨を改めました。

後亟から中田へ

伝記には、木舟城主石黒左近守の焼き討ちにあったと記されています。一向一揆戦乱期の文明13年(1481)春、井波瑞泉寺を石黒党が攻めた田屋川原合戦の時に焼亡し、本尊阿弥陀如来像のみを護り、本願寺勢力に味方する増山城主神保氏を頼りました。神保氏によって中田村三倉内に寺領を与えられ、伽藍を再建したと伝えられています。

その後、延宝7年(1679)に水難を避けて中田の中心地へ移転します。中田は砺波平野を横切る時の重要な宿場町で、早くから栄えていました。中田古地図に善興寺は町並みのほぼ中央南側に描かれています。

享保2年(1717)には本願寺第15代住如上人より木像本尊の御判をいただきました。

明治14年(1881)、中田町の大火により焼失。再建中の明治18年(1885)に再び町の大火事により焼失し、明治30年(1897)に現在地へ移転し、今日に至ります。

現在まで

親鸞聖人650回大遠忌法要の庭儀の様子

明治45年(1912)親鸞聖人650回大遠忌法要修行。

昭和6年(1931)農繁期託児所を開設。

農繁期託児所

可問蔵(経蔵図書館)のちに園舎として使われた

昭和7年(1932)図書館『可問蔵』開館。

昭和9年(1934)託児所が常設中田保育園となる。

昭和23年(1948)蓮如上人450回忌法要修行

昭和40年(1965)親鸞聖人700回大遠忌法要修行

昭和52年(1977)常設中田保育園は、                      社会福祉法人中田保育園となる。

平成10年(1998)蓮如上人500回遠忌法要修行

平成22年(2010)10月15〜17日、                    親鸞聖人750回大遠忌法要円成

親鸞聖人750大遠忌法要での庭儀列

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