善興寺について

By , 2010年2月25日 3:25 pm

法興寺について

法興寺は、奈良県高市郡明日香村にある日本最初の仏教寺院、飛鳥寺の前身です。推古天皇4年(596)に、飛鳥朝時代の権力者で外交官の立場にあった蘇我氏が、欽明天皇の命により建立した菩提寺で、日本最初の金銅大仏を本尊としたことで有名。初代住職は蘇我馬子の子、善徳でした。百二十年後の元正天皇霊亀2年(716)、都が奈良に移されたとき、法興寺も奈良の南の地に移転し、元興寺と寺号がかわり、現在に至っています。

一方、飛鳥法興寺は、たびたびの政変や後世の戦火に遭い、現在では、奈良県明日香村に「真言宗安居院」として残っています。しかし、そこには日本最初の鋳造仏の『飛鳥大仏』があるだけで、古文書類は何もなく、従って七世の慧乗という方についても何も判りません。

ただ、研究者のなかでは、この慧乗という方は、大津市石山寺に伝わる『越中国官倉納穀交替記』という一級資料に、弘仁9年(818)越中正郡司として派遣されてきた中央官吏外従八位下飛鳥戸造有成の子孫で、寛平9年(897)に郡大領に出世した従八位上飛鳥戸造嘉樹等一族の人物で善興寺はその氏寺だったのではないかと推定(富山県史通史編I)される説もあります。

本尊阿弥陀如来像についての伝説

現在も小矢部市の三分一地区を流れる宮川の付近に昔、貧しいが信心の篤い老婆が住んでいました。あるとき、夢の中に川に流れてくる木像の仏像を見て、宮川で一尺余の阿弥陀如来像を発見しました。「ぜんこうじ」に行きたいというお告げによって信州長野の善光寺を目指します。しかし、道中の中田村で急に重くなり、善興寺に納めたのが現在の本尊と伝えられています。

九郎助の伝説

石黒氏来襲のとき、後亟に九郎助という剛力で篤信の人がいました。いち早くその事態を知った九郎助は、善興寺に駆けつけ、急を告げるとともに堂塔を剛力にまかせてあっという間に解体し、一夜のうちに中田に運んだという伝説が残されています。一説には、騎馬でご本尊を護送の際、増水中の庄川を板戸で押し分けながら馬を引いて渡りきったといいます。この九郎助と言われる人の縁でつながる家系が後亟に在住しています。

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