恵信尼さまの祖父は高岡地方出身
三善為康(みよしためやす)という方をご存知ですか。算博士、三善為長の後継者としてだけでなく、『朝野群載』『拾遺往生伝』や『叡山根本大師伝』の著者として活躍した多方面にわたる優れた学者でした。彼の出身地は、越中国射水郡、現在の高岡、射水地方でした。元は射水郡を治めていた郡司クラスの豪族、射水氏の出で、18歳で上京し、その類い稀な才能をみこんだ三善為長は、実子、雅仲がいたが、彼を養子にむかえ、姓を「射水」から「三善」に変えさせた。三善家は美濃、越前、越後、備前、播磨の国を治める介(中央から派遣される官吏)であった。
三善為康は、熱心な仏教徒であった。若い時は観音信仰に傾倒していたが、晩年は阿弥陀信仰にこころを寄せた。
彼の人生については『本朝新修往生伝』に
算博士の三善為康は、越中国射水郡で生まれました。代々「射水」を姓にしていました。治暦3年(1067)、18歳のときに初めて故郷を離れて京都に行き、算博士三善為長に入門しましたところ、すぐ内弟子にしてもらいました。為康は、算道を学ぶだけでなく、中国の古典を学ぶ紀伝道にも努力しました。為康は、幼少の頃からひとえに観音菩薩を信仰していまして、如意輪観音に関する呪文を唱えていました。その回数は気にしていなかったのですが、天仁2年以降は毎日5千回を誦するようになりました。
保延5年6月3日、病気で起き上がることができなくなってしまいました。周囲の者たちに「今度の8月が臨終のようだ。まもなくだ。極楽往生のために役立つことをしたい。念仏以外のことはできない」といいました。猶子の行康が勧めていうことには、「受戒して出家すれば極楽往生できる身になれますよ。」すると為康は、「極楽往生は信心ということによるのだ。必ず出家しなければならないということはまったくない。その信心の上での念仏を積み重ねて一生を過ごせば、十人であっても十人すべてがすぐさま、百人であっても百人すべてがすぐさま、必ず極楽往生できるのだ。」その年の8月4日、西方を向いて息が絶えました。91歳でした。(現代語訳 今井雅晴先生)
とあります。
出家して極楽往生を願うことがスタンダートだった貴族社会にあって、出家の必要性を否定し、信心ということが要なのだとする念仏のいただき方は、同時代の著作には例がないそうです。
また、三善家は黒谷の念仏者であって、法然聖人の教えを一家で聞いていたようです。そこに親鸞聖人が比叡山を下りて法然聖人に参籠する。そこで恵信尼さまと出会ったというのです。
恵信尼様の方が法然聖人の門下生としては先輩だったのかもしれません。
とにかく、今回の今井雅晴先生のお話をお聞きして、越中出身の方をおじいさんにもつ恵信尼さまの影響によって親鸞聖人の人生はあったのだと教えていただきました。
三善姓に名前を変えたとういことの意味はなにか。射水氏一族はこぞって三善姓に名をかえたといわれます。今後は富山の郷土史の方と、地元の歴史との情報共有をしながら新たな真宗史を明らかにしていきたいものです。今井先生ありがとうございました。