御正忌&正信偈和讃の会
御正忌報恩講も御正当をお迎えし、午前9時30分から正信偈行譜のお勤め、そして引き続いて庫裏にて正信偈和讃の会が開催されました。机の上にはノートパソコンが置かれ、本願寺の法要の中継(報恩講式作法)をみながらの講義でした。
今日は高僧和讃の「道綽讃」の「末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ」と「鸞師のをしへをうけつたへ 綽和尚はもろともに 在此起心立行は 此是自力とさだめたり」の二首を味わいました。
最初のご和讃は、
お釈迦様は、「私が入滅してから千五百年後の末法の世において、さとりを開く教えをどれだけ修行してもひとりもさとりを得ることはできないだろう。」とお説きになりました。
という内容の和讃で道綽禅師の著された『安楽集』から親鸞聖人は引用されています。
『大集経』「月蔵分」をひきていはく、<わが末法のときのなかに、億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ>と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」と。
このご文をもとに先の和讃はよまれているのでした。お釈迦様の教えがどれだけ厖大にのこされていても、時代が遠くなればなるほど誰もその教え通りに修行ができなくなり、さとりを得るものがだれひとりとしていない。というお釈迦様の直言がうたわれているのです。そんななかで浄土教がなぜ末法の時代に残り、人々を救うのかその理由がこの和讃から味われるのです。
次の和讃は、「曇鸞大師の教えを受け伝え、道綽和尚はすべてのこの娑婆世界でさとりを求める心を起こし修行をする事は、すべてが自力であるとさだめられた。」という意味の和讃です。これも『安楽集』の「ここにありて心を起し行を立て浄土に生ぜんと願ずるは、これはこれ自力なり。」に基づいているもので、自力では真実の往生が叶わないことを曇鸞—道綽という祖師方の教えから親鸞聖人に伝わってきている連続性を味わうことができます。そして私にも。
御正忌のご縁で道綽禅師のおこころに出会わせていただきました。