相馬組へ…その2
19日の朝、支援米を載せた2トン車を運転して下さったご門徒のお二人はご都合により、先に富山へ帰られました。残った私たちは、相馬組の組長、松山住職に会いに、一路相馬市へ。東西で津波の被害の分かれた国道6号線を北上し、福島第一原発から40km以上離れたところに光善寺さんはありました。松山住職のお話によると、避難中の寺院が7ヶ寺ある中、今は連絡を取り合っているが、これから組としての活動が維持できるのかが不安だとおっしゃっていました。5kg袋のお米をお渡しし、本堂に参拝。外陣の虹粱の彫刻の見事な様式に思わず見とれてしまいました。このお寺のご門徒さんも津波で亡くなられています。多くのお骨が本堂に安置されていました。
18日にブータン国王夫妻が訪問された相馬市立桜丘小学校は、光善寺さんのすぐご近所で、一日違いでお会いすることはできませんでしたが、その小学校前を通って津波被害のあった海岸線へ向いました。相馬の津波被害地域は、瓦礫というものがほとんど残らず、海へ持っていかれたそうです。津波被害を受けたビルや家屋だけが残って、道路などの復旧工事が行われていました。
その後、東北電力原町火力発電所周辺の被災地域に立ち、原発の規模の大きさを想像しました。5.6メートル以上の防波堤は破壊され、家々の基礎だけが空しく残り、ここで多くの方が生活し、そして津波で亡くなられたことを憶いました。
再び原町の常福寺さんへ飯舘村の寺院の報恩講参拝に向いました。ちょうどお斎を召し上がっておられるお昼時の到着となり、私たちもお斎をいただきました。食材は県外から取り寄せられ、おいしく味付けがなされていました。とくに、去年飯舘村で穫れて保存してあった餅米の「栗おこわ」をいただき、今年からいただけない貴重なものを味わいました。
飯舘村の善仁寺ご住職、杉岡誠住職は、報恩講の表白のなかで、東日本大震災と原発事故の避難中にこの報恩講を勤修する旨を阿弥陀如来に申し上げられました。バラバラに避難生活を送っておられる村の皆さんが、久しぶりに常福寺さんの本堂で集われる…どんなお気持ちで参られているのか…察するにはあまりにも大きすぎて、ただ、ご一緒にお念仏を称え、正信偈を唱えるだけでした。
ご法話を一席聴聞し、みなさまとお別れのご挨拶をし、南相馬をあとにしました。これからも継続的な支援活動を続けていきます。