永代経法要勤修7/6-7/9

By , 2016年8月28日 8:02 pm

s-IMG_0712本年度の永代経法要がお勤まりになり、各地から多くのご参拝をいただきました。

永代経懇志を納められる方もご家族でお参りになり、先往かれたご先祖様たちの導きによって仏法にあわせていただいているご縁に感謝申し上げました。

最初の二日間のご法話は、昨年からお越しいただいている藤島秀恵さん(八尾町勝福寺若院)よりご法話をいただきました。

s-IMG_0710 法名についてのお話では、仏教徒としての名のりであるその内容は、仏(覚者)と法(教え)と僧(教えを喜ぶ集団)に帰依することであり、釋〇〇という名前をいただくことは、「生きとし生けるもののいのちは平等である」という教えに生きるということであると教えていただきました。

また、「手次の寺と門徒」という関係性について平等なる教えに基づくということは、お寺と門徒が同じ立場に立って教えをいただくということであるとおっしゃいました。その視点に立つには、お互いが「煩悩具足の凡夫」であるという自覚が必要であり、それは常に自分が正しいと思う心ではなく、法(教え)に照らされた心で事象を見る心が大切だと語られました。

その心をいただくためにはご聴聞がもっとも大切であり、「聴」とは「自分で聴くこと」、「聞」とは「意識せずに聞こえてくること」と阿弥陀如来のはたらきによって聞かせていただくので、聴聞に「ご」がつくのであると教えていただきました。

 

後半二日間のご講師は、竹中了祥さん(婦中町笹倉妙順寺若院)でした。老いというのは、みんな遠ざけようとしているけれども、学ぶべきものであると、譬え話を通して話されました。

s-IMG_0724 また、人には、「衆生」や「有情」といわれる存在と、「有覚」という存在があり、前者は恥ずかしいという気持ちのない人のことであり、後者は恥ずかしいという気持ちのある人であることを紹介されました。恥ずかしいという気持ちを「慚愧」といい、経典には、「「慚」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慚愧」と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」と人間であることの意味を仏法に聞かせていただきました。

また、最近の脳科学の研究から認知症のメカニズムが明らかになってきたことを紹介され、歳をとって感動することがなくなると、脳は萎縮し、過去の記憶だけにとらわれた生き方になるので、感動することの大切さを説かれました。

感動できる世界はどこか遠くにあるのではなく、身近なところに常にあるのだという経典のお言葉と通じることを教えていただきました。

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