長い花見
今年の春は陽気な日が続きます。桜は満開を迎えてなかなか散らず、なんだか諸行無常の教えを忘れてしまいそうです。そんな日々ですが、いのちの終わりが必ずあり、お別れをしなければなりません。
今月の正信偈和讃の会では、親鸞聖人が道綽禅師を讃えられた最後のご和讃は、
縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひたり
を味わいました。
「たとえ一生の間悪をなす者を手に導きとるために 私の名を称えよと願いながら もしそのいのちが浄土に生まれなければ 私は仏にならないと誓われた」
と讃えられています。末法五濁の時代に生まれ生きる私たちは、自力の教えでは誰もさとりを得ることができないことを明らかにされた道綽禅師は、阿弥陀仏の本願第十八願に誓われた「もしもわたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、私の国浄土に生まれると思って、たとえば十声私の名をよんで、もし浄土に生まれることができないようなら(若不生者)わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい教えを謗るものは除かれます。」この誓いを受けて、
自らがどこに生まれ、生きているのか、そして私自身の姿を洞察されたなかから味われた道綽禅師のお心を親鸞聖人も同じく受け止められているところにこのご和讃のお心があります。愚者の自覚はむずかしい。