善興寺について
善興寺の略伝

善興寺旧跡
善興寺は、もともと後亟(ごぜ:小矢部市)に在りました。現在もその旧地には石碑が建っています。
善興寺に伝わる古文書には、開基について「飛鳥法興寺七世慧乗禅師によって建立」された、と記されています。
飛鳥から後亟へ
飛鳥朝の欽明天皇13年(552)に仏教は百済より伝えられました。、仏像を天皇より賜った蘇我氏の菩提寺、法興寺の第7世慧乗法師が、諸国を巡錫するなかで越中国を訪れ、石動山の麓に勝地を選んで一宇を建立したことが始まりとされます。霊亀2年(716)のことです。のちに天台宗の勅願所として「飛鳥山善興寺」の号を賜り、石動山の三分一を功徳田としました。

実如上人より下付されたご本尊
文明5年(1473)第41世俊乗法師は、越前吉崎を拠点に北陸地方を巡教していた本願寺第8世の蓮如上人の教化に遇い、浄土真宗に帰依します。大永9年(1529)6月16日、本願寺第9世の実如上人から阿弥陀如来のご絵像を下附され、天台宗から浄土真宗に宗旨を改めました。
後亟から中田へ
伝記には、木舟城主石黒左近守の焼き討ちにあったと記されています。一向一揆戦乱期の文明13年(1481)春、井波瑞泉寺を石黒党が攻めた田屋川原合戦の時に焼亡し、本尊阿弥陀如来像のみを護り、本願寺勢力に味方する増山城主神保氏を頼りました。神保氏によって中田村三倉内に寺領を与えられ、伽藍を再建したと伝えられています。
その後、延宝7年(1679)に水難を避けて中田の中心地へ移転します。中田は砺波平野を横切る時の重要な宿場町で、早くから栄えていました。中田古地図に善興寺は町並みのほぼ中央南側に描かれています。
享保2年(1717)には本願寺第15代住如上人より木像本尊の御判をいただきました。
明治14年(1881)、中田町の大火により焼失。再建中の明治18年(1885)に再び町の大火事により焼失し、明治30年(1897)に現在地へ移転し、今日に至ります。
現在まで

親鸞聖人650回大遠忌法要の庭儀の様子
明治45年(1912)親鸞聖人650回大遠忌法要修行。
昭和6年(1931)農繁期託児所を開設。

農繁期託児所

可問蔵(経蔵図書館)のちに園舎として使われた
昭和7年(1932)図書館『可問蔵』開館。
昭和9年(1934)託児所が常設中田保育園となる。
昭和23年(1948)蓮如上人450回忌法要修行
昭和40年(1965)親鸞聖人700回大遠忌法要修行
昭和52年(1977)常設中田保育園は、 社会福祉法人中田保育園となる。
平成10年(1998)蓮如上人500回遠忌法要修行
平成22年(2010)10月15〜17日、 親鸞聖人750回大遠忌法要修行予定。
法興寺について
法興寺は、奈良県高市郡明日香村にある日本最初の仏教寺院、飛鳥寺の前身です。推古天皇4年(596)に、飛鳥朝時代の権力者で外交官の立場にあった蘇我氏が、欽明天皇の命により建立した菩提寺で、日本最初の金銅大仏を本尊としたことで有名。初代住職は蘇我馬子の子、善徳でした。百二十年後の元正天皇霊亀2年(716)、都が奈良に移されたとき、法興寺も奈良の南の地に移転し、元興寺と寺号がかわり、現在に至っています。
一方、飛鳥法興寺は、たびたびの政変や後世の戦火に遭い、現在では、奈良県明日香村に「真言宗安居院」として残っています。しかし、そこには日本最初の鋳造仏の『飛鳥大仏』があるだけで、古文書類は何もなく、従って七世の慧乗という方についても何も判りません。
ただ、研究者のなかでは、この慧乗という方は、大津市石山寺に伝わる『越中国官倉納穀交替記』という一級資料に、弘仁9年(818)越中正郡司として派遣されてきた中央官吏外従八位下飛鳥戸造有成の子孫で、寛平9年(897)に郡大領に出世した従八位上飛鳥戸造嘉樹等一族の人物で善興寺はその氏寺だったのではないかと推定(富山県史通史編I)される説もあります。
本尊阿弥陀如来像についての伝説
現在も小矢部市の三分一地区を流れる宮川の付近に昔、貧しいが信心の篤い老婆が住んでいました。あるとき、夢の中に川に流れてくる木像の仏像を見て、宮川で一尺余の阿弥陀如来像を発見しました。「ぜんこうじ」に行きたいというお告げによって信州長野の善光寺を目指します。しかし、道中の中田村で急に重くなり、善興寺に納めたのが現在の本尊と伝えられています。
九郎助の伝説
石黒氏来襲のとき、後亟に九郎助という剛力で篤信の人がいました。いち早くその事態を知った九郎助は、善興寺に駆けつけ、急を告げるとともに堂塔を剛力にまかせてあっという間に解体し、一夜のうちに中田に運んだという伝説が残されています。一説には、騎馬でご本尊を護送の際、増水中の庄川を板戸で押し分けながら馬を引いて渡りきったといいます。この九郎助と言われる人の縁でつながる家系が後亟に在住しています。



